クッサン・ド・リヨンの歴史と由来
どうしてクッションの形をしたお菓子がリヨンを代表するのか?
それはリヨンの歴史に関係しています。
クッサン・ド・リヨンの起源にはフルヴィエールの丘と深い関係があります。フルヴィエールの丘とはリヨン市内を見渡せる小高い丘のことで、フルヴィエール大聖堂が立っています。
下の写真の左、丘の上に建ってる建物がフルヴィエール大聖堂です。

フルヴィエール大聖堂 Basilique Notre-Dame de Fourvière

フルヴィエールの丘からみたリヨン市内
話は中世時代にさかのぼります。
14世紀にヨーロッパでペストが大流行しました。
ペストとは元々ネズミに流行っていた感染病で、感染すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ恐れられていました。フランスでは人口の1/3~2/3にあたる2,000万~3,000万人が死亡したと言われています。
その後、17~18世紀にも何度か流行し、1643年にはリヨンにもペストが発生しました。
フルヴィエールの丘にはマリア像が捧げられており、ペストが広まり始めると、人々はそのマリア像に祈り、「7リーブル(libre)のろうそく1本と1枚の金貨をのせた絹製のクッション」を捧げました。
通常は大聖堂の上に置かれているのですが、改装のため下に降りていた時のマリア像です。

マリア像
リーブル(libre)とは、当時の使われていた重さの単位のことで、1リーブル libreは500gほどの重さです。つまり、7リーブルは3.5kgほどの重さです。
重さの単位は当時は共通化されておらず、時代や地域によって重さが微妙に違っていましたが、1リーブルは人間にとって1日に必要な穀物の重さを基準にしていたそうです。その7日分ですので、とにかくとても大きなろうそくをささげたということです。
リヨンの人々は賢明に祈りをささげました。
すると数日後、突然ペストが治まり人々は救われました。
ペストの流行から救われたことに感謝して、1643年にリヨンの人たちはフルヴィエールの丘に小さな教会を建てました。
そして、時は流れて、1843年にフルヴィエールの小さな教会ができた200周年を記念して金のマリア像がささげられました。
そのときから毎年12月8日にリヨンの救済をマリア様に感謝して、街中にろうそくを灯すお祭りが始まりました。これがフェット・デ・ルミエール Fête des Lumières です。
日本語では「光の祭典」といいます。今でも毎年12月に開催され、期間中は街中が光に包まれるリヨンを代表する大きなイベントです。
金のマリア像ができてから27年後の1870年、フランスとプロイセンの間で戦争が始まります。世界史的には普仏戦争といい、プロイセンは現在のドイツにあたる国です。
プロイセン軍はリヨン方面にも攻め込んできました。
リヨンの人々は再び奇跡を信じ、フルヴィエールの丘の金のマリア像に祈りをささげました。
すると、プロイセンの軍隊は停止し、撤退していきました。リヨンの街は戦争から逃れることができました。
リヨンの人々は2度目の奇跡を祝して、フルヴィエールの丘に大きな教会を建てることにしました。それが今のフルヴィエール大聖堂 Basilique Notre-Dame de Fourvière です。1872年に建設が始まり、1896年に完成しました。
この伝説の中にでてくるマリア様にささげた「絹製のクッション」をイメージして作ったのがクッサン・ド・リヨンです。
作り始めたのは1897年に開店した老舗のコンフィズリーである Voisin ヴォワザンで、創作されたのは1960年のころでした。
それ以降、リヨンを代表するお菓子になりました。