クロワッサンの起源
クロワッサンの先祖であるキプフェル Kipferl は、13世紀以来、東欧の国で作られていました。
ただ、レシピが残っていないため、甘いのか塩っぱいのか、現在のクロワッサンのような折込パン生地がつかわれているのかは分かっていません。
おそらく折込パン生地はつかわれておらず、ブリオッシュのようなパン生地で形が三日月型だったのではないでしょうか。
ウィーンのクロワッサン
1863年、神聖ローマ帝国の首都だったウィーンはオスマントルコ軍に包囲され、今にも陥落という状況に追い込まれていました。
ポーランド王国からの援軍を待っていましたが、いつまで待っても援軍は来ませんでした。
そんなとき、トルコ人に変装し包囲網を抜け、ポーランド国王に援助を要請した人がいました。
それが通訳官を務めていたフランツ・コルシツキー Franz Kolschitzky です。

フランツ・コルシツキー
[ https://de.wikipedia.org/wiki/Georg_Franz_Kolschitzky ]
彼のおかげで、駆けつけたポーランド軍と神聖ローマ皇帝軍によりオスマントルコ軍を撤退させることに成功しました。
彼はお礼としてウィーン市より、オスマン軍から奪った500袋のコーヒー豆をもらいました。
その翌年、聖シュテファン大聖堂の近くにカフェを開店しました。
聖シュテファン大聖堂の場所
このカフェは「青い瓶」という店名で、ウィーンで最も古いカフェでした。コーヒーやクロワッサンを提供していました。
その頃、ヨーロッパではコーヒーに砂糖やミルクを入れずにブラックのまま、薬という位置づけでしたが、コルシツキーは漉したコーヒーにミルクを入れる飲み方を紹介しました。
その後、パリやロンドンにも伝わり、砂糖も加えて甘いコーヒーも飲まれるようになりました。
神聖ローマ皇帝レオポルド1世は「小さな角」を意味するドイツ語である Hörnchen を作る許可を与えました。それはクロワッサンのような小さなパンで、オスマン帝国のシンボルである三日月の形をしていました。
なぜ、敵だったオスマン帝国のシンボルのパンを作らせたのかというと、ウィーンでは 「クロワッサンを食べることは、トルコ人を食べることだ」という意味があったから。
コルシツキーがパン職人だった説
実際にコルシツキーは通訳官でしたが、パン職人だったという伝説もあります。
ウィーンを包囲していたオスマントルコ軍は、ある夜、地下を掘ってウィーンに入ることを決めました。
しかし、パン屋さんの朝は早く、みんなが寝静まったころに起きて仕事をはじめていました。コルシツキーは地下から聞こえてくる異常を察知し、守備隊に知らせます。
駆けつけた神聖ローマ皇帝軍とポーランド軍によりオスマン軍を撤退させました。
その後、同様にカフェをオープンしてクロワッサンを提供したという説です。
クロワッサンなので、パン職人だったというほうが説得力が増すからなのかもしれません。でも、実際は通訳官です。
どちらにせよ、コルシツキーはウィーンを救った英雄として、ウィーンにはコルシツキー通り Kolschitzky-gasse や石像が置かれているほどの人物なんです。
パリで初めてのクロワッサン
パリには1837年ごろ、クロワッサンが登場しました。
ウィーンでのコルシツキーの活躍の前に、すでにパリにクロワッサンは登場していました。
ふたりのオーストリア人(August Zang / Ernest Schwarzer)が2区のリシュリュー通りにウィーン風ブーランジュリーを開店し、そこでクロワッサンを販売していました。
ブーランジュリーの場所(92, rue de Richelieu) 現在もこの通りは残っています。
クロワッサンは一気に人気を得て、ほかのブーランジュリーでも売られるようになります。1850年ごろにはすでに日常的に食べられるパンとなっていました。
朝食のメニューとして定番のクロワッサンですが、朝食として食べられるようになったのは1950年代に入ってからです。
ただ、現在では健康志向によりバターたっぷりのクロワッサンを毎日の朝食で食べることは少なくなってきているようです。
でも、フランス旅行中にはぜひ朝食にクロワッサンとカフェオレを食べてほしいです。