パティシエとは
フランス語で「菓子職人」は男性の場合パティシエ Pâtissier, 女性だとパティシエール Pâtissière といいます。また、菓子を製造して販売する店や菓子のことはパティスリー Pâtisserie といいます。
フランスでのパティスリー(お菓子)とは小麦粉をもとしにした生地をオーブンで焼いたお菓子のことを指します。一般的にアントルメ(ケーキ)やタルト、焼き菓子、菓子パンなどをつくる職業のことです。
ブリオッシュやクロワッサンといったバターと砂糖をくわえていて、チョコレートや果物をはさむパンを作るのもパティシエの仕事の範囲内ですが、同じくパン職人(ブーランジェ Boulanger/ブーランジェールBoulangère)でも作ることができます。
厳密には、チョコレート菓子を作る職人はショコラティエ Chocolatier/ショコラティエール Chocolatière と呼ばれています。
では、フランスでパティシエという仕事が始まった歴史をみていきましょう。
中世時代のパティシエ
Pâtissier を意味する古フランス語 Patitz から13世紀中頃にパティシエ Pâtissier が派生し、14世紀頃に成立した言葉と言われています。
中世ではスパイスのきいたパンデピス Pain d’épice、タルト Tarte、トゥルト Tourte を主に甘いお菓子として食べていました。
1292年の文献によると、パリに
- パティスリー 68軒
- エショデ 2軒
- フワス屋 3軒
- ガストリエ 7軒 Gastelier 菓子屋のこと
- ウーブリ屋 29軒
さらに、街中にはゴーフル、ダリオル、ベニエ、ニュールを売歩く人が多くいました。
1440年になるとパティシエの同業組合ができ、肉や魚、チーズをつかったパテを作って販売する独占権を得ました。組合を作る必要があるほどパティシエの数は増えていました。
ただ、この時代にはパティシエは甘いお菓子を作る人ではなく、小麦粉で生地を作り、その中に肉などを詰めるパテを作っていました。甘味ではなく、小麦粉を使っているという点に注目してください。
1566年、シャルル9世の法律により、ウーブリ屋と完全に分け、パティシエは宴会と結婚披露宴での料理を作って販売する権利を独占しました。この頃、パティシエは総菜や仕出しの仕事を兼ねていました。
現在でもパティスリーでは、総菜屋とかねて営業している店が多く見られ、店の看板に Pâtisserie-Traiteur(パティスリー−トレトゥール)と掲げられています。例えば、パリのジェラール・ミュロ、エディアール、フォション、リヨンのピニョルなどが代表的です。
この頃のお菓子といえば、ラトン、ジャンブレット、クラクラン、ブーブラン、タルムーズなどがあります。
近代のパティシエ
16世紀から17世紀になると、今日もある生地に近いものが考案され、マジパンのタルトやトゥルト、折込パイ生地などが登場しました。
ラグノやクロード・ル・ロラン Claude le Lorrain などがパティシエとして活躍をします。さらに、ヴァテルやレクツィンスキなどが菓子の発展に力を注ぎました。
18世紀にはいると、パリにはおよそ200人ほどのメートル・パティシエ Maître-pâtissier がいました。メートル・パティシエとは菓子の製造と販売の許可を受けた職人のことです。ただ、この時もシャルキュトリという肉の加工品を製造して販売する職業とは区別されていませんでした。つまり、メートル・パティシエは甘いものや、肉などの加工品のどちらもつくることが許されていました。
1711年から1717年にかけて、パティシエは肉を加工したハムやベーコンなどの販売が禁止されました。ただ、小麦粉で作った生地であるパテにハムやベーコンを詰めることは許可されました。
近代のパティスリーを築いたのはバイイのシェフであるアヴィスと彼の弟子カレムです。彼らはシュー生地、メレンゲ、ヴァロ・ヴァン、折込パイ生地、ラム間、クロカンブーシュなどの軽いお菓子を考案しました。この頃にパティスリーの基礎ができました。今のパティスリーはこの頃の技術を元にして、微調整しているに過ぎないと言われています。
続いて、シブスト、ストレー Stohrer、キエ、ジュリアン兄弟らがミルフォイユ、パン・ド・ジェーヌ、サントノレ、サヴァラン、ブルダルー、ブランフロなどを考案し、その菓子は今でも引き継がれています。