ガリア時代
古代ローマ時代、フランスやベルギー、北イタリアのあたりはガリア Gaule と呼ばれていました。
この時代にはハチミツやナッツ類が採れており、お菓子の原型のような食べものを作っていました。
中世時代(481-1453)
481年、フランク人のクローヴィスは正統派キリスト教に改宗して、フランク王国を建国しました。この年からいわゆる中世時代が始まります。
中世初期には、フランス菓子の元祖であるエウロギアやウーブリが食べられていたという記録が残っています。
711年、イスラム教徒がイベリア半島を征服し、ヨーロッパのキリスト教世界は深刻なを受けることになりました。イスラム勢力はピレネー山脈をこえてフランク王国の領土に侵入してきました。
この際にイスラム教徒のサラセン人が、クルスタッドというタルト菓子の作りかたやサトウキビでつくった砂糖をもたらしました。
732年、イスラム勢力はトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク軍に敗れ、イベリア半島に撤退してしまいました。
8世紀半ばのシャルルマーニュ大帝の時代になるとキリスト教が普及していきました。キリスト教では復活祭前の40日間(日曜を除く)には肉や卵などを食べてはいけないというきまりがありました。キリスト教の普及にともない、節食の習慣も行われるようになりました。
このころフランスでは、りんごやメロン、栗、なし、いちじくなどの果物が収穫できるようになりました。
城壁でかこった大都市の経済が中心となり、商人が活躍しはじめました。
1096年に十字軍の遠征がはじまると、こしょうを中心とした香辛料や砂糖、ソバなどがイスラム圏からもたらされました。香辛料が入ってきたことで香辛料にはちみつを加えたパンデピスというパンが作られるようになりました。
教会や修道院が農地の開拓をおこない、領主となりました。さらには王・貴族・騎士・庶民すべての階級からからの大小の寄付などを得ることにより力をつけていきました。
修道院で作っているハチミツやアーモンド、農民が納めた卵や小麦粉があり、オーブンも持っていたため、さまざまなお菓子をつくるようになりました。
このころの修道院ではアーモンドを用いたマカロンやカヌレの原型などがつくられました。
また、教会が力を持ったことにより、キリスト教の節食が頻繁におこなわれ、その期間に食べる揚げ菓子がフランス各地で生まれました。
14世紀後半、シャルル5世とその息子シャルル6世の時代に料理人であるタイユヴァンが活躍しました。彼はフランスでもっとも古いレシピ本を出版しました。
パリにはセーヌ河を利用して、多くの食料品が現在の市庁舎前の広場に届けられました。1185年にはレ・アール中央市場がつくられ、市内のあちこちにもマルシェがたっていました。
レ・アール中央市場は1969年まで営業が続きましたが、1973年にランジスに移転しました。
13世紀頃から一般家庭には小さな釜があり、肉をローストしたり、生地を焼いたりしてお菓子を作っていました。
中世時代のお菓子
ガリア時代にはすでにハチミツやナッツ類が採れていました。8世紀頃には、りんごやメロン、洋梨、いちじく、さくらんぼ、プラム、栗など多くの果物を食べていました。
生のフルーツを生のまま食べたり、ワイン煮やコンポートにしてデザートにしていました。砂糖が入ってきたことにより、フルーツを砂糖漬けにする技術も開発されました。
十字軍により、アンズ、レモン、オレンジといった果物もつくられるようになりました。
中世時代にはお菓子はまだ発達しておらず、小麦粉でつくった生地でつくったものやフルーツをつかったものが食べられていました。甘味は蜂蜜でつけることもありましたが、甘味をつけなかったり、塩味にしたものでした。
揚げもののベニエ、ウーブリやエショデ、ニュールといった焼いたもの、砂糖漬けした果物やコンポート、蜂蜜をつかったヌガーなどのボンボンが好まれていました。
そのほかにも生地を器にして中に果物を詰めるタルトやトゥルト、卵液を流したダリオルが食べられていました。
食に関する職業
この時代に存在した食に関する職業は
- ロティエール:肉をローストする職人
- パティシエ:パイ包み料理
- シャルキュティエ:豚肉加工品、煮込み料理をつくる職人
などの職人がいました。
現在のようなレストランは存在しませんでしたが、
当時は、パティシエという名前のついた職人はいましたが、現在のように甘い菓子をつくるのではなく、生地で肉などを包む料理を作る職人でした。つまり、菓子職人ではありませんでした。小麦粉をつかって料理を作るという点では共通点があります。
また、パティシエはパン職人との区別はあまりありませんでした。というか、職業の範囲が定まっていなかったため、パティシエの仕事の境界線が決まっていませんでした。
近世時代(1453-1789)
16世紀に入るとイタリアのフィレンツェから先進の文化が入ってきて文化活動が活発になってきます。それに伴い、料理やお菓子の技術、材料などがフランス宮廷にもたらされました。
1533年、イタリアのメディチ家の娘であるカトリーヌ・ド・メディシスがフランス王アンリ2世と結婚をしました。カトリーヌはイタリアから料理人を連れて嫁入りし、新たな技術や食材がフランス宮廷に伝わりました。
お菓子としては特産のアーモンドをつかったフランジパーヌやマカロン、冷たいデザートであるアイスクリームを伝わりました。
砂糖はすでにフランスでつかわれていましたが、まだ高価なものでした。
スペインにはチョコレートがすでに16世紀はじめには伝わっていましたが、長らくチョコレートは門外不出となっていました。
しかし、1615年、スペイン王の娘アンヌ・ドートリッシュがルイ13世と結婚をしました。アンヌは大好きなチョコレートを嫁入りの際に持参してきて、それをきっかけにフランス宮廷に広まっていきました。
さらに、スペイン王の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュが、1660年にルイ14世と結婚します。同じくチョコレートが大好きな彼女は、ショコラティエ(チョコレート職人)やチョコレートを飲む道具一式を持ってきました。これによりフランス宮廷にチョコレートが広く広まっていきました。
このころにようやく砂糖がやや普及しはじめ、技術も発展していきます。砂糖は熱を加える長さにより、シロップからカラメルというように色や味が変わっていきます。その技術が知られるようになってきたのもこの頃です。
その砂糖の技術をつかったキャラメル、アーモンドを砂糖がけするプラリネ、栗を砂糖漬けにするマロン・グラセがつくられるようになります。
サヴォワ家で料理長を務めた料理人ラ・ヴァレーヌ La Varenne François Pierre によって、折込パイ生地をつかったフイヤンティーヌというパイ菓子やスポンジケーキ(ジェノワーズ)を考案しました。
近代時代(1789-1992)
1789年にフランスでおこった市民革命によって、王が権力をもった絶対君主制時代と封建的体制が崩壊してしまいました。これがフランス革命でこれによってフランスは新しい近代国家を築いてくきっかけとなりました。
革命によって王家や貴族に仕えていた料理人や菓子職人たちが、雇い主とともに外国へ亡命するか、街へ出ました。さらに、聖職者の追放、修道院や教会の奪略や破壊が行われ、修道僧も街へ出ることになりました。
これにより、街に多くのレストランやパティスリーが開店しました。今までは宮廷や貴族、修道院でのみで楽しんでいた料理やお菓子を街の一般人も楽しめるようになっていきました。
1806年、ナポレオンがヨーロッパに対してイギリスとの貿易を禁止する大陸封鎖令をだしました。これによりイギリスを通じたアメリカ大陸からの商品が入ってこず、キビ砂糖、コーヒー、カカオ、ラム酒が入手できなくなりました。
砂糖が入ってこないことから、北フランスでビートの生産を奨励し砂糖をつくることに成功しました。
この頃に美食研究家が脚光を浴び、ガストロノミーという言葉がつかわれるようになりました。ガストロノミーとは文化と料理の関係を考察することで、美食学ともいいます。
18世紀後半から19世紀前半に、アヴィスやカレムという料理人・菓子職人が活躍します。彼らは現在でも残っている料理や菓子の基礎を築きました。
アヴィスは当時パリ一番といわれたパティスリー・バイイのシェフで、シュー生地などを考案しました。彼の弟子であるカレムは革命的料理人と呼ばれ、折込パイ生地やシュー生地の改良など菓子の基礎を築き、今も見られるパティスリーを多く考案しました。
現在の菓子の技術は、アヴィスやカレムの技術を元にして微調整したのみともいわれています。
現代(1992-)